親愛なる親父様へ
あっという間の3月だ・・・
前記事の下にちょこっと書いたのですが・・・
身内に不幸がありまして、2月も逃げ、せわしなく動いております。。
こういうのを残すのもどうかなぁ〜・・・と思うのですが
されど 『不定期日記』、みたいなものなので
自己満足記録ってことで記しておくことにします。
21日の0時36分頃、体調が急変し、父が他界いたしました。
様々なキッカケになる病気もありましたが、結局は 『肺炎に寄る心肺停止』 でした。
20日の昼間に母から呼び出しの連絡を受け、職場を早退。
夕食頃には、父を残し病院から一旦帰宅しました。
素人ながら、その頃は医師がいうほどの緊迫感を感じてはいませんでした。
しかしそのあと23時過ぎに再び呼び出され、その時はすでに呼吸は停止状態。
ただし、心臓はわずかながらに動いています。
一旦解散後、さらにもう一度様子を見て帰宅した兄も再び戻ってき
そこから皆で、父に繋がれていた心拍計を眺めていました。
ぎりぎりの底辺で留まっていた心拍数は
家族も全員揃い、雑談しているさなか、す〜っと0になりました。
看てくれていた看護士さんは、家族が揃うのを待っていたみたい、と仰いました。
状態はともかく、結果としては家族全員で看取ることはできたかなぁ、と思います。
生命の "生きようとする力" ってすごいなぁ、と、改めて思えた瞬間でもありました。
あれから。
10分くらいして、当直の、小力似でちょっとチャラめの医師が入ってき
ドラマで見るようなことをして、腕時計を見て 「0時47分です」 と事務的に仰り
あっさり部屋を出て行きました。これが正式な届け出時間となるのですね。
諸手続きを終えて帰宅し、なんとなくTVを点けてみると
オリンピック女子フィギュアの金メダル決定の瞬間。
普段なら興味のないものですが、そこからしばらくぽや〜っと見てしまいました。
ああ、寝不足増量。。
それから、どたばた葬儀諸々・・・
今まで、そういったものは全て父任せだったため、母娘は分からないことばかり。
連絡を最小限に親戚内でこぢんまり・・・のはずが、そこそこ賑わったお式となり
お坊さんも、30年超振り、父の父(祖父)の時と同じ住職さんが直々お越しになり
せっかくだから賑やかに、と、プラス3人の坊さんを連れてきてくださいました。
葬儀までの時間も少なかったのですが
父はお祭りやイベントごとが大好きだったので、しめっぽいものではなく
賑やかに明るくできるよう、兄とそれぞれ、最低限の仕掛けを施しまして
故人さんも参列者さんも、そこそこ飽きない作りにできたのではないかと。
偶然にもここだけ、2月とは思えない暖かな晴れ間の二日間。
久々に両家親族が集結、故人さんないがしろ(!?)に、ワイワイ楽しい式となりました。
(両親の結婚式振りというウワサも…)
特に、母とわたしは、今までの状態をよく見てきただけに
むしろ、闘病中の晩年期を見ている方が悲しかったかもしれません。
不自由から開放されて楽になれて良かったな、と思っています。
*-*-*-*-*-*-*-*
わたしなりの送り方。
相思相愛だった 『身守りマーロ』 を即席で作り、親父さんの肩に託しました。
(時間と気力がなくて3だんごどころか1アタマだけですが・・・)
三途の川が渡れなかったら、ニャンコの天国に誘導してもらってください。
すでに身内の諸先輩方もおりますので。
むしろわたしもそっちに行きたいものです。
兄なりの送り方。
"父ちゃん直伝奥義" を、通夜泊まりの斎場で朝まで作っていたそうな。
(寝ろよ〜)
(追記:わざわざ送ってくれたのでUPしました)
そして、3だんごの山盛り写真
ちっちゃなお酒に大好物の甘〜い和菓子、自作の俳句・・・
昔の大荷物持ちさながら、たくさん持って旅立ってもらいました。
親父さんをひとことで言えば、なんとまぁ破天荒な人であったか。
様々な悪行(!?)は、今回ばかりは目をつむることにしましょう。
教諭が天職であったほどの子ども好き
子煩悩で甘やかし世界一の父上様であったと思います。
手紙を書いて旅立ちの枕元にしのばせるとか、そういうニクい演出はガラじゃないので。
だから此処に残しておこう。 優しかった父ちゃんへ。
心配し連絡をくださったみなさま、ご配慮・お気遣いいただいたみなさま
ありがとうございました。
さて、通常営業に戻ります。
(でもそのあとソッコー風邪引いて鼻セレブ1箱使い切ってもう大変・・・-_-;)
通夜外出前、クローゼットの高台ベッドで寄り添ってた!!
前記事の下にちょこっと書いたのですが・・・
身内に不幸がありまして、2月も逃げ、せわしなく動いております。。
こういうのを残すのもどうかなぁ〜・・・と思うのですが
されど 『不定期日記』、みたいなものなので
自己満足記録ってことで記しておくことにします。
21日の0時36分頃、体調が急変し、父が他界いたしました。
様々なキッカケになる病気もありましたが、結局は 『肺炎に寄る心肺停止』 でした。
20日の昼間に母から呼び出しの連絡を受け、職場を早退。
夕食頃には、父を残し病院から一旦帰宅しました。
素人ながら、その頃は医師がいうほどの緊迫感を感じてはいませんでした。
しかしそのあと23時過ぎに再び呼び出され、その時はすでに呼吸は停止状態。
ただし、心臓はわずかながらに動いています。
一旦解散後、さらにもう一度様子を見て帰宅した兄も再び戻ってき
そこから皆で、父に繋がれていた心拍計を眺めていました。
ぎりぎりの底辺で留まっていた心拍数は
家族も全員揃い、雑談しているさなか、す〜っと0になりました。
看てくれていた看護士さんは、家族が揃うのを待っていたみたい、と仰いました。
状態はともかく、結果としては家族全員で看取ることはできたかなぁ、と思います。
生命の "生きようとする力" ってすごいなぁ、と、改めて思えた瞬間でもありました。
あれから。
10分くらいして、当直の、小力似でちょっとチャラめの医師が入ってき
ドラマで見るようなことをして、腕時計を見て 「0時47分です」 と事務的に仰り
あっさり部屋を出て行きました。これが正式な届け出時間となるのですね。
諸手続きを終えて帰宅し、なんとなくTVを点けてみると
オリンピック女子フィギュアの金メダル決定の瞬間。
普段なら興味のないものですが、そこからしばらくぽや〜っと見てしまいました。
ああ、寝不足増量。。
それから、どたばた葬儀諸々・・・
今まで、そういったものは全て父任せだったため、母娘は分からないことばかり。
連絡を最小限に親戚内でこぢんまり・・・のはずが、そこそこ賑わったお式となり
お坊さんも、30年超振り、父の父(祖父)の時と同じ住職さんが直々お越しになり
せっかくだから賑やかに、と、プラス3人の坊さんを連れてきてくださいました。
葬儀までの時間も少なかったのですが
父はお祭りやイベントごとが大好きだったので、しめっぽいものではなく
賑やかに明るくできるよう、兄とそれぞれ、最低限の仕掛けを施しまして
故人さんも参列者さんも、そこそこ飽きない作りにできたのではないかと。
偶然にもここだけ、2月とは思えない暖かな晴れ間の二日間。
久々に両家親族が集結、故人さんないがしろ(!?)に、ワイワイ楽しい式となりました。
(両親の結婚式振りというウワサも…)
特に、母とわたしは、今までの状態をよく見てきただけに
むしろ、闘病中の晩年期を見ている方が悲しかったかもしれません。
不自由から開放されて楽になれて良かったな、と思っています。
*-*-*-*-*-*-*-*
わたしなりの送り方。
相思相愛だった 『身守りマーロ』 を即席で作り、親父さんの肩に託しました。
(時間と気力がなくて3だんごどころか1アタマだけですが・・・)
三途の川が渡れなかったら、ニャンコの天国に誘導してもらってください。
すでに身内の諸先輩方もおりますので。
むしろわたしもそっちに行きたいものです。
兄なりの送り方。
"父ちゃん直伝奥義" を、通夜泊まりの斎場で朝まで作っていたそうな。
(寝ろよ〜)
(追記:わざわざ送ってくれたのでUPしました)
そして、3だんごの山盛り写真
ちっちゃなお酒に大好物の甘〜い和菓子、自作の俳句・・・
昔の大荷物持ちさながら、たくさん持って旅立ってもらいました。
親父さんをひとことで言えば、なんとまぁ破天荒な人であったか。
様々な悪行(!?)は、今回ばかりは目をつむることにしましょう。
教諭が天職であったほどの子ども好き
子煩悩で甘やかし世界一の父上様であったと思います。
手紙を書いて旅立ちの枕元にしのばせるとか、そういうニクい演出はガラじゃないので。
だから此処に残しておこう。 優しかった父ちゃんへ。
心配し連絡をくださったみなさま、ご配慮・お気遣いいただいたみなさま
ありがとうございました。
さて、通常営業に戻ります。
(でもそのあとソッコー風邪引いて鼻セレブ1箱使い切ってもう大変・・・-_-;)
通夜外出前、クローゼットの高台ベッドで寄り添ってた!!
2014-03-06 00:00
nice!(22)